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携帯/ウェブ/詩誌またはmixiで詩を書くということ(長いので注意)

難しいな、というのが最初の印象であり、やりとりは面白いのだけど、残念ながら学が無いために話題の多くが共通DBに成り得ていない自分の状況をヒシヒシと感じてしまってもいる。が、基本的に根がいい加減な人間なので、そこら辺りはあまり意識せずに書いてみる。(さすがにそんなノリと知識で論戦に参加するほどの特攻精神は持ち合わせていないのは界隈の人にとって幸いであったろう)

事の発端は阿部さんのmixiの日記
(mixiに入っていない人はごめんなさい。ちょっと転載お願いするには長いので)

で、この話をそのままトレースするわけにもいかず(そんな力量は無い)、そこでもう少し別の視点から書いてみることにする。で、それをするためには、そもそも自分にとっての詩の有り様に立ち返ってみる必要がありそうだ。
多分に無自覚なところもあるのだけれど、恐らく自分にとっての詩(もしくは詩を書くということ)は、都市生活における身体性の喪失と現実感覚の希薄化に、恐らくは不可分に結びついている。
平たく言えば、この実感無き生を現実として捉えるための手段であり、それを投射し返すための手法であり、接点のようなものなのかもしれない。(もっともこれはそれほど昔から、というわけでもない)
何故そのようなものが主題として捉えられているか、といえば、単純に自分がずっと生まれてから東京住まいであり、その東京という場所が高度成長後の熟覧期に差し掛かった時代からバブルを経て、という過程が組み込まれているからなのかもしれない。(かと言って別に宮台賛歌でもない。彼も変わったが)
どうにも掴みどころがない、この都市空間における現実と、現実感の無い生と、情報過多による感覚の薄弱。それこそが、それゆえに、何がしかの接点を作らざるを得なかった、そうしなければ溶解、拡散して雲散霧消していってしまうような意識が、どこかにあったのだろう。
別に詩でなくても良かったのかもしれないし、詩でなければならなかったのかもしれない。が、詩であったことは幸いで、その適度な手軽さが継続に繋がっているのだろう。
これが小説や絵画や、あるいはもっと建築や彫刻のようなものであったなら、自分はここまで継続することはとてもできなかったろう。根気も意気地も無いのは都会的な特徴かもしれない。言い訳かもしれないが。
そのようなこともあり、最近は専ら現実社会における身体性、皮膚感覚を求めている気がする。そして、力量不足と浅薄な知識によりそれが成功していないこともまた事実なのだ。哀しい哉。

一つだけ自身の詩について気がついたことといえば、以前のものと比べ、具体的な事物を表現することが多くなってきている、という点。
以前の頭の中でグルグルと捏ね回して、抽象的であることがその心象の表現であるかのような蒙昧な言葉遊び的なところから、一歩現実へと歩み寄っているのかもしれない。しかし、これは妥協ではなく、現実へと投射するための必然でさえあるのだろう。過去のものには具体的な地名など一切書かれていないが、最近は明記しないまでも、容易に想起できる具体的な名称または事物が出てきている。
身体性の喪失と現実感覚の希薄化という点において、携帯小説は非常に示唆的なのだが、その世界には最早現実的なあらゆる物事が取り払われ、狭い没コミュニケーションの世界のみが支配するものとなっている。それは極めて欺瞞的で、そう、ディズニーランド的でさえある。
そんなファンタジーが長続きするはずもなく、あっという間にブームと呼ばれるものも終わってしまったが、それも致し方のだと思う。問題はディズニーランドで、現実でありながら非現実を徹底し、それを現実として現前と眼前に存在させている、まさにその点において極めて現代的であり、病的でさえある。そして、その病的な存在そのものが都会的人間を惹きつけている。ニヒリズムとシニシズムでさえも、その場においては消費させるべき欲望でしかない。
その、恐らくは自分の(危機)意識からはもっとも嫌悪すべきものへのアンチテーゼとして、詩が具体性を帯びてきているのだろう。そこに気づくまでにずいぶんと遠回りをしてしまったが、才能の無さ故、と諦めるしかないのかもしれない。後悔はしていないが。

ここまでだらだらと書いて、ここから上記の阿部さんの詩/日記(というよりもそれに対するレスの山)における面白いテーマに至るわけだが、それは携帯とPC(と紙片)、またはmixiで詩を書くということ。
もう飽きた、という人はここで読むのも切り上げた方が良い。まだ長いよ?
自分に限って言えば、詩を書く際に携帯の画面で見ることは一切想定していない。意識もしていない。寧ろ携帯で見てくれるな、くらいの勢いかもしれない。
未熟と言えばそれまでだが、そもそも携帯の画面で読むための呼吸を組み込むことができていないのだ。
一時期mixiの日記にそのまま詩を載せていたのを、少しずつBlogへのリンクへ切り替えているのは、携帯での閲覧を少しでも制限したかったためでもあるのだけれど、mixiの利便性が向上した結果、勝手に携帯モードへと変換してしまうようになり、どこまで意味があったのかは分からない。
それでも、携帯から見るには適していないと思う。そもそも一行が長すぎるし(しかも最近さらに長くなりつつある)、Blogサービスそのものも携帯で見るにはレイアウト等も不便なのだ。
そうは言っても携帯で様々なウェブサイトを見てはいる。詩に限ってそうしないのは、前途の意識が強く働いているからに違いない。携帯で見、書いてしまえば、一文に、行間にあるべき織り込まれた現実への射程を歪んだ形で変換し、覆い隠してしまうように感じるから。そして、それが必ずしも杞憂ではないだろう、と感じるのは、携帯小説のあまりの内容の無さ、稚拙さ、(自覚されていない)現実逃避が先例として存在しているからなのかもしれない。携帯というのはツールとしては便利なのだけれど、表現に限って言えば、極端に先鋭的になるか、そうでなければ極端に(時に必要な要素さえそぎ落として)単純化するしかない。要件を伝えるのには良いかもしれないが、ごく一部の人を除いて、この制約の中で昇華された表現を行うのは、困難を極めるだろう。(大多数の恋愛詩と呼ばれるものが、これも無自覚に自慰でしかないのは、こういったことも要因の一つなのかもしれない)

そうかと言って、それなら紙片で、とならないところがアイロニーですらあるわけだけれど、紙片は詩としては極めて制限的な場になってしまっている。どういうことか、というと、そもそも読者=作者の状況が閉塞しか生まない、という状況。まさにそれこそがいかなる詩誌を以ってしても先天的に抱え込んでしまっている末期癌的な病巣なのだ。どこに投稿しようが、自身で作ろうが、それは変わらない。
恐らく、この閉塞状況は今後も継続していくと考えると、現存する詩誌というのは仲間内の回覧と相互のバーター価値以上のものを持ち得ないのかもしれない。そして、その閉ざされた詩誌の循環こそ、まさに携帯表現の持つ狭い没コミュニケーション性と通底する病理ではないだろうか。
また、この状況は紙片の詩誌に限らず、現代詩フォーラムなどのSNSにおいても同様で、そこに詩を書く者以外の読み手がいるとは到底考えづらい。第三者(書き手と、それを読む読み手兼書き手、以外の純粋な読み手もしくは詩とは縁遠かったストレンジャーな人)がいない状況、というのは恐ろしいまでに現実への問いかけを無効化していくだろう。
(もしそういう存在がいたとしても、限りなくゼロに近いに違いない。そんな状況にも関わらず、それでも自分が紙に拘ってしまうのは、単なる趣味嗜好の問題でしかない。紙や印字の持つ雰囲気が好きなのだ。フォーラムについては、たまに退会を考えないでもない。が、書き手であると同時に読み手でもあるので、その点でやはりフォーラムの存在は<自分の詩も含めて>駄作が多くつまらない諍いもあるが、それでも貴重な場ではあろうと思っている)

PCはその二つの中間的な妥結点として、その唯一と言っても良いメリットを持ってして存在している。もちろんそのメリットとは「インターネット」であるという点で、これは非常に大きい。(フォーラムが詩作者の参加を前提として成り立っている以上、ツールとしてのインターネットではあったとしても、「開かれた」という点を欠いているので、ここでは除く)
それは、偶然の来訪者や詩とは無関係に過ごしている第三者が詩に触れる可能性を有している、ということを意味している。その際にBlogやウェブサイトだけでは、ほぼ第三者は誰も訪れないのに対して、大規模コミュニティは、その点をクリアしている。(詩のBlogやウェブサイトにたどり着く人は、多かれ少なかれ詩に対する興味があり、多くの場合書いたりもしているだろう)
そして、自分が日記の山の中に時に詩を書いているのは、その偶然性がもたらす広がりに、詩を取り巻く閉塞性を打破する可能性があるからだ。携帯閲覧を、その手間を持って弾く、という妥協点を作ってはいるものの、それは否定できない。
そして、Blogやフォーラム、または詩誌や詩のイベントでは決して交わることが無かったであろう人から感想をもらうことがある、という一点の事実だけを持ってしても、他には無い可能性があるとは言えないだろうか。
もっとも、mixi自体は次第にコミュニティとしての存在価値を喪失しつつあるので、そう遠くない将来別の場所を検討しなければならないのだろうけれども、少なくとも今はその規模とユーザーの存在から考えて、mixi以外のもので同様かそれ以上の可能性を求めるのも難しいかもしれない。
それでも、詩そのものが死滅しつつある日本(書店でさえ、詩集を手に入れるのは困難になりつつあり、現代詩手帖でさえ配荷していない書店も多い状況)において、詩が現実へと問いかけ、膾炙していくためには、ゲリラ的に第三者へアプローチしていくしかなく、それを(迷惑にならない)形として展開していくためには、こういった場での詩作というのは大きな意味を持っているはずだ。
そして、その可能性を広げるためには、詩は、私的に過ぎるものでは恐らく駄目で、少なくとも一片の普遍性を持っている必要がある。巷の小説やドラマ、映画の「感動」「共感」といったものは、上っ面の普遍性「モドキ」でしかなく(だからこそすぐに飽きられる)、詩はその内在する言葉を、より実質で本質としての普遍性を備えていなければならない。そうでなければ、第三者へ詩を開くことも、また詩が第三者へと開かれることもないのだから。文化はいつも異質な第三者の存在が無ければ豊かにはならない、ということを意識しながら。

残念なことに、自分はまだそこまで詩を書けない。能力も知識も表現もあらゆるものが足りない。

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